otkoygのブログ

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ねむの木のこどもたちとまり子美術展

公式サイト→http://roppongihills.com/jp/events/nemunoki.html
六本木ヒルズに足をのばし、森アーツセンターギャラリーで開催中の『ねむの木のこどもたちとまり子美術展』をみる。モネ展と比較すると、圧倒的に空いていたが、よほど強く心をゆさぶられた。宮城まり子という特異な個性が触媒となって実現した作品群である。彼女が書いた、障害児たちの紹介文がポエティカルでいちいち泣かせる。宮城まり子は、吉行淳之介が終生愛した、芸術的感性豊かな女優であった。
「こどもたち」が隣の部屋でコーラスを歌っているのが聞こえた。そこで宮城まり子をはじめて見ることができた。テレビ(新日曜美術館)で見て太ったなぁとは思っていたが、実物は小柄というのが第一印象。150cmしかないらしい。なんだか妖精みたいだった。施設のスタッフには厳しさも見せるらしいが…。

モネ展

公式サイト→http://www.nact.jp/exhibition_special/2007/monet/index.html
地下鉄千代田線、乃木坂駅国立新美術館に直結していた。空いていると思って日曜の閉館間際を狙って行ったのだが、そんなに空いていなかった。香水の臭いが苦手なのだが、香水好きの客が大勢いて、会場はよくわからない臭いで充満していた。モネに影響を受けた現代絵画が同時に展示されていて、そっちのほうが面白かった。色がまだくすんでおらず、鮮やかだし。20分くらいで退出。

むきだしの光子

DoGA CGアニメーションコンテスト上映会』というものに毎年かよっているのだが、今回そこで見た作品のうちで一番衝撃的だったのが谷口崇さんのこの作品だった。谷口さんが作詞作曲し、みずから歌っている挿入歌が耳にこびりついて離れない。谷口さん、いい声してる。ストーリーは、日々姑にいびられている主婦が、束縛から逃れ自由の国に導かれる…というもの。谷口さんのサイトで作品が見られます。http://mc.adkda.net/index.htm

外山恒一

今回の都知事選の立候補者で、テレビの「政見放送」でガンダムギレン・ザビもどきの演説を行って話題になっている人。R30さんの記事を読んではじめて知った。これは笑える。しかし時事ネタだから賞味期限が短い。いま書いておかないとね。
R30さんが「メディアアート」と称揚しているのには、Wikipediaの美術関係の項目をいぢっている数少ない人間(10人くらいしかいないらしい)としては違和感を感じる。この外山という人はアート文脈に無関係だ。反体制活動家として2年も投獄されたという履歴を誇っているくらいだから、あくまでも政治の人。笑いで政治批判をするという部分で、すばらしい才気を感じましたが。
「アート」というジャンルが、何か特殊な価値をもつもののように持ち上げるのはどうも。かえって矮小化しているんじゃないか。

ウィキペディア

暇ネタ。ウィキペディアにしばらくはまってました。「ピカソ」の項目をちまちま修正していたんですが、ふと英語版をみたら比較にならない量の記述があったので、ナショナリスティックな対抗意識からつい訳してやろうとか思ってしまったわけです。ただし忠実には訳していません。原文も未完成ですし。
英語は苦手だけど、むかしピカソのファンだったから、ヤフーのウェブ翻訳を頼りになんとか理解できました。もとの英文がすっきりしていさえすれば、ウェブ翻訳もきれいな訳を出してくれるということも発見。
そんなこんなで、調子に乗ってほかにも新規項目などを書き始めたら、速攻で修正を入れようと待ち構えている人たちがいることに気づきました(笑)。フォーマットがそれなりに厳しいわけです。ビクビクしながら登録していたら、こんどは「放っておいても大丈夫」と思われたらしく、いくら登録しても構ってもらえなくなりました。それはそれで寂しい。

ニュー・ワールド

→公式サイト
文學界』(2006.5)で、阿部和重が暴走気味に絶賛していた。相方の中原昌也はブレーキ役をつとめていたが、じつは彼もおなじ評価である(つまり絶賛)。
読み直したら首肯できることばかりで、付け加えるべきことはない。したがってこの一文は、阿部・中原評を紹介するだけである。


阿部「この映画はまず構成が異常だよね(後略)」
中原「もうひとつ異常なのは(中略)徹底して自然光のみで撮っていること(後略)」
阿部「この異常さの原因は(監督が)ポカホンタス役の女優に惚れ切ったからだとしか思えない(後略)」
中原「音楽はジェームズ・ホーナーとは思えないぐらい、すごくよくできてる。やってることは完全にフィリップ・グラスみたいなミニマルだもん(後略)」


注釈を入れると、その曲はワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』序夜『ラインの黄金』である。ただし原曲もあんなにミニマルっぽくリフレインしたかどうかわからない。ワーグナーといえばヒトラーが愛好した作曲家で、古代ローマ的な、世紀末的な、誇大妄想的な…という連想が働く。イザベル・アジャーニとクラウス・キンスキーが出演した映画『ノスフェラトゥ』(1979)でも同じ曲が使われていた。…「新しい世界」、ニュー・ワールド接触する際の不安と期待をよく表現する、ある意味ヤバイ選曲であった。


中原「スクリーンにはコリン・ファレルとかが映ってるのに、そこでやられていることは完全にゴダールみたいなことというか(笑)」


禿げしく同意だが、ずっと楽しめる作りで、2時間16分飽きなかった。

立喰師列伝

→公式サイト

変な映画を「これでもか」とばかりにしつこく見せられた感じ。後悔はしていない。変な映画ということは知っていたし、変わった経験ができたからである。そういう意味ではたいへん満足した。
日本には偉大な映画監督が何人かいて、押井守もそのひとりである。1990年代以降はシリアスな作品が多いけど、かつてはテレビアニメ業界のメインストリームにいて、「うる星やつら」などのチーフディレクターをつとめていた。その監督がひさしぶりに真剣に冗談映画を作った。これのおかげで、押井という山に登るとっかかりができたような気がする。わたしは「アヴァロン」(2001)以降の押井ファンなので、それ以前の作品がいまだによくわからないのだ。映画とOVAにはだいたい目を通したけど、テレビアニメにまではちょっと手が回らない。


しつこいと感じたのは山ちゃん(山寺宏一)のナレーションで、映像のほうは逆に淡泊だった(というより動かなすぎ)。最近の映画供給サイドには、「客にはとりあえず大盛りを出して満腹させとけ。どうせ味なんかわかりゃしねえから」っていう横着な態度を感じる。「マトリックス リローデッド」(2003)は、過剰な映像にうんざりさせられた最初だったかも。「キング・コング」(2005)の首長竜が組んずほぐれつする映像も過剰だった。こっちのほうは多少はましだと思ったが…。
いまの映画はたぶん、良し悪し以前に過剰さが必要なのだろう。低予算のために映像でそれができなかったので、かわりにナレーションでやったというのが、今回の押井監督の野心だったかもしれない。