otkoygのブログ

Twitter : MT515

サブカル「真」論

サブカル「真」論 (That’s Japan Special 連続シンポジウムの記録)

サブカル「真」論 (That’s Japan Special 連続シンポジウムの記録)

宮崎●(略)宮台真司の存在の部分というのは確実にサブカルチャーで、しかも八○年代のサブカルチャーを引き継いでいた部分があると思うのね。この人はどう考えてもおかしい、変な人だなというふうに画面から受け取るわけですよ。それは何かというと、ものすごく生っぽくて、生々しい存在で、自意識がむき出しになっているような人が、何か理論的なことや訳のわからないことを、とうとうとしゃべるわけ。
中森●まったくそのとおりです。「朝生」は週末の夜中なので、いろいろな人が見ているんですね。ただテレビを付けている人も多いじゃないですか。それで、宮台さんの言っていることじゃなくて存在を見たと思うんです。
宮崎●そうそう。しかもこの人のものを読んでみると、社会学者で社会学博士という立派な経歴をおもちであるにもかかわらず、3Pが大好きとか、そういう話ばっかりやっているわけですよ。これは並列の暴力性をもう一度呼び覚ますような……。

並列の暴力性とは何か。
たとえば、

というふうに、本来同じじゃないはずのものを「同じ」と強弁する、ポストモダニズム的な階層フラット化運動の暴力性である。これが楽しかった。
わたしは宮台より6学年下だが、80年代の気分を共有している。いまは権威が存在しない時代だが、80年代は知識人とそれに従う愚かな大衆という図式がまだ生きていた。威張っていたのは、難しい本を書く学者とか評論家である。そういう状況下で、たとえばプレ新人類の田中康夫が作家デビュー作「なんとなく、クリスタル」(80)において、「ルイ・ヴィトンのバッグも岩波新書も等価だ」と書き、知識人をからかった。それが新鮮な時代だった。
この本では無視されているけど、ビートたけしの存在は大きかったと言える。当時たけしのギャグに腹をかかえて笑った日本人はみな80年代の権威破壊の共犯者である。坂本龍一とともに、大島渚の映画「戦場のメリークリスマス」(83)に出演し、ラジオで大監督・大島渚を引きずり落とすトークを炸裂させたときがサブカルトリックスターとしてのたけしのピークだったのかもしれない。


わたしは懐かしさと、宮台好きで読んだが、サブカルという言葉に興味をもつオタク第二世代以下にもぜひ読んでもらいたい本である。